太宰治の消極面と積極面
——『走れメロス』と『人間失格』を通じて
学士号を取得するために
外国語学院に提出する
山東科技大学
2009年6月
目 次
要旨(日本語)……………………………………………………..…..ii要旨(中国語)…..……………………………….……………..…..…iii
はじめに……………………………………………..…..….………........1
第1章 太宰治について….………………………………….……..….3
1.1太宰治の出身...............................…….............………........……...3
1.2太宰治の作品. ……………………………….……………..…......5
第2章 作品についての分析................................................................9
2.1『人間失格』について...................................................................9
2.2『走れメロス』について…..........................................................11
2.3両者の比較................... …………………….................................12
第3章 太宰治についての評価............................................................14
3.1太宰治の思想.................................................................................14
3.2太宰治の影響.........………............................................................15
おわりに…………………………………………….……...…..…..……16
参考文献………………………….……………….…..…..……...……...17
要 旨
太宰治は多くの作品を残した。その作品もたびたび研究されてきた。特にその中の『人間失格』は遺作として太宰治の自伝と考えられている。それは太宰治を研究する際に欠かせない作品の一つである。
『走れメロス』は太宰治の安定時期の代表作である。二つの作品はまったく異なる主題を表している。
本論文はこの二つの作品を比較し、太宰治の思想の消極面と積極面について研究しようとしたものである。
本論は三つの章に分けて、論説を展開していく。
第1章では、具体的に太宰治の出身と家庭環境を紹介する。それから、主な作品を紹介する。
第2章では、『走れメロス』と『人間失格』をそれぞれ分析し、具体的に研究する。作品の中の思想を比較する。
第3章では、作品を通じて表したい思想をまとめる。それから、この思想から読者の受けた影響を研究する。
本稿は、二つの作品を通して、太宰治の思想を消極面と積極的の両面に分ける。一般の人々により簡単に太宰治を理解してもらいたい。
キーワード:太宰治、積極面、消極面、思想、影響
摘 要
太宰治的一生留下了许许多多的优秀作品。人们对其作品的研究也是不遗余力的。这其中的《丧失为人的资格》作为其遗作,更被看成是太宰治的人生自传。是研究太宰治的必需作品。
同时,在太宰治生命的中期生活安定,写下了许多积极向上的作品。《奔跑吧,梅洛斯》便是其中的典型代表。两部作品表现了近乎相反的思想。
本文拟以这两部作品为切入点,通过比较等方法,浅析太宰治的思想中所表现的积极和消极两方面。
本论文共分为三章进行论述:
第一章首先要具体介绍一下太宰治的家庭出身背景,以及他一生的主要作品。先让人们对他有大体了解。
第二章主要是对他的两部代表性作品进行具体的研究。并对作品中体现出的思想进行比较分析。
第三章总结太宰治通过其作品所表达出来的思想以及这些思想对人们产生的影响。
通过本论文的研究,论证太宰治一生的文学可以分为消极和积极两个方面,以求更简单地让人们理解太宰治。
关键词:太宰治;积极面;消极面 ;思想;影响
はじめに
太宰治は現在も多くの人々に親しまれている作家だ。左翼運動からの脱落、麻薬に手を出し、四度にわたる自殺未遂、心中未遂をくりかえした挙句の死、愛人と私生児までもいた……という彼の人生は破滅的といえるもので作品にも投影されている。にもかかわらず魅力があるのは、人間の苦悩がわかりやすく作品に刻み込まれているからである。
しかも太宰治の目は純粋で、自分の中にある虚偽を逸らすことをしない。裏切りを自虐的とも言えるほどにえぐり出し、人間の苦悩という形で提示する。作られた自分を演じなけれればならない苦悩、人間になるための、人間につながるための精一杯の苦悩を提示する。代表作に『人間失格』がある。
でも、太宰治の生涯の中には苦悩ばかりではない。そのため、その作品は消極的なものばかりではない。昭和一四年、太宰治は石原美知子と結婚し、それ以来、積極的な作品を多く世に出す。戦時中も創作力は耐えず衰えず、『富嶽百景』、『走れメロス』、『東京八景』、『津軽』、『お伽草紙』などの傑作を書く。
ほとんどの研究者は太宰治の文学を前、中、後の3時期に分けている。前の段階の錯乱、中期の健全、後期の衰退、それぞれ左翼の破裂する悪い時代、戦争の時代、戦後に対応する。異なった時期と社会環境は異なった特色を持つ文章を懐胎しだした、しかし異なった作品は同じように魅力を持っており、それは即ち文学に対する怠らない追求、この追求はまた決して現実の生活を離れない。
ところが、この分け方は少し複雑である。そのため、本論文は前期と後期を一つの全体と考え、消極的時期と称する。それに対し、中期は積極的時期と称する。それぞれ『人間失格』、『走れメロス』を代表作として研究する。
この課題を創作するにあたり、学部の孫逢明先生のご指導とご援助に対し、感謝の意を表わす。
第1章 太宰治について
太宰治の思想を理解するために、その出身、家庭環境などを大体知っておく必要がある。なぜかというと、太宰治の出身は太宰治の文学に大きな影響を与えた。
1.1太宰治の出身
明治四二年六月~昭和二三年六月一三日(一九〇九~一九四八)小説家。本名津軽修治。青森県に生まれた。父は県下屈指の大地主で、多額納税者として勅撰の貴族院議員にもなった。修治はその六男だが、長男、次男は夭逝し、弟の礼治も昭和四年に死亡。ほかに姉が四人といった大家族であった。
青森中学、弘前高校を経て、昭和五年、東大仏文科に入学。井伏鱒二に会い、以後長く師事する。非合法運動に参加し、脱落。郷里の芸妓小山初代と同棲、長兄に初代を連れかえられた間に、バーの女給と心中し、自分だけ助かるといった事件を引き起こした。八年、遺書のつもりで『思い出』を発表。以後、創作にはげむ。昭和一〇年、都新聞の入社試験に失敗して自殺未遂、大学を中退する。その直後盲腸を手術して腹膜炎を併発し、鎮痛のためパピナールを用い中毒にかかり、死ぬまで麻薬にわざわいされた。
昭和一〇に発表した『逆行』が芥川賞次席となり、文名があがる。昭和一一年、第一創作集『晩年』刊行。昭和一二年より一年半ほど寡作であったが、昭和一四年、石原美知子と結婚してから、作品を多く世に出す。戦時中も創作力は耐えず衰えず、『富嶽百景』、『走れメロス』、『東京八景』、『津軽』、『お伽草紙』などの傑作を書く。戦後は『パンドラのはこ』で活動を盛り上げ、昭和二一年疎開先から上京してからは、流行作家として次々と作品を発表、なかでも『ヴィヨンの妻』、『斜陽』、『人間失格』は戦後の代表作である。しかし、流行作家となってからの太宰治は、過労が重なり、そのうえ、戦後社会に絶望して酒と麻薬で持病の結核も重くなりも限界に達し、昭和二三年六月、朝日新聞連載予定の『ダッド·バイ』一三回までの原稿を机上に残し、愛人と玉川上水に入水心中した。
太宰治の生涯を見ると、津軽地方屈指の大地主の家の六男として生まれたが、これが逆に負い目となったということに気付く。また病弱な母とのつながりが薄く、外的世界との和解を困難にした。両親の愛が不足、おまけに、大家族の単調な生活で、彼は非常に弱くなって、 ややもすれば傷を受ける。四度目の自殺未遂もこれらの点と関係している。
それから出身地について、津軽は本州島の最北端に位置し、昔では“エビの外国”と称され、積雪の深い冷たいところだ。しかし厳しい生活が現地の人々に豪快で強烈な抵抗の精神、およびユーモアを育成させる。これらは日本の昔から物への悲しむ伝統と相反する。
誕生地は青森県で名声の大きい大尽の家庭で、居住するのは豪華な邸宅で、外出する時座る馬車の上に盛大な家の徽(鶴)があり、この一般人より一段抜きんでた豊かな生活は太宰治に幼いころから1種の名門出身という優越感を繁殖させた。が、自家が周囲の貧しい農民と身の回りの小さい仲間の家から血と汗を搾り取り、豊かな生活を創立したことを知った後、彼はすぐに苦悩に陥った。
その上、彼はその時流行した民主主義、マルクス主義の思想を了解した後、ますます大尽の子としての恥辱と罪を感じる。大学に入った後、太宰治は家から送ってくる十分な生活費によって、退廃的な享楽にふける生活を過ごし、その同時に、自分の出身を痛恨した。彼はこっそりとその時不法な共産党の秘密裏の活動に従事し、最後にマルクス主義の政治運動に身を投じる。
以上述べたことは太宰治に消極的な影響をもたらした。
1938年は太宰治の一生の中で画期的な1年だ。この年、太宰治は毅然として来る生活と決裂し、再生しようと決意した。彼は自分を甲州の御飯峠に禁固して、心身の回復を期待した。このことがなければ、もしかするとこの時の太宰治はすでに死んでいたかもしれない。
1939年、太宰治は石原美知子と結婚し、東京の三鷹に定住した。この時、彼の創作も更に1歩進んだ。『東京の八景』、『富嶽百景』等有名な短編を書いた。太宰治の生前に完成する8冊の長編小説の中の6編はすべてこの時期に創作したものだ。これは恐らく彼の一生の中で最も健康な時期と言えよう。太宰治はきらきらと美しくて多彩な才気が現れると同時に、またユーモアがかなりある。友人に明るい人だと思われている。
以上述べたことは太宰治に積極的な影響を与えたの原因だと言えよう。
1.2太宰治の作品
太宰治は一生に多くの作品を書き残した。本論文で、私は作品の中で表現した思想によって、作品を二種類に分けた。主な作品を取り上げ、その内容について紹介する。
まず、消極的な思想を表現する作品である。
= 1 \* GB3 ①『人間失格』について
『人間失格』は遺作として太宰治の自伝と認められている。全書は序曲、後記と3編の親書からなる。この作品の主人公である大庭葉蔵が生まれつき“へり人”だと自認した。そのため、かつて不法なマルクス主義の社会団体に参加した。その後、女優と一緒に自殺する時、女性の方は死亡したが、彼自身は救われた。その原因で、彼は殺人を教唆するという罪名でしばらく入獄され、罪人に成り果てる。結婚後、清らかな妻が他人を簡単に信用したため、汚辱された。このことによって彼は徹底的に崩壊した。最後に大庭葉蔵は人間としての資格を喪失する人間になって、完全に感情に任せて事を進め、堕落する人生に向かった。薬物におぼれ、買春、自殺、それから、完全に他人が理解できなくなり、それと同時に恐れるあまり、世界を放棄し、最後に精神病院に送り込まれた。
= 2 \* GB3 ②『斜陽』について
戦争が終わった昭和20年。没落貴族となったうえ、当主であった父を失った和子とその母は、生活が苦しくなったため、家を売って伊豆で暮らすことにする。
一方、南国の戦地に赴いたまま行方不明になっていた弟の直治が帰ってくるが、家の金を持ち出し、東京の上原二郎(小説家で既婚者)の元で荒れはてた生活を送る。直治を介した和子と上原との運命的出会いや交際、生活が苦しくかつ自身の健康がすぐれなくなっても和子らを暖かく見守ってくれた「最後の貴族」たる母のもとで日々は穏やかに流れていたが、やがて母が結核に斃れ、無頼な生活や画家の本妻への許されぬ愛に苦悩していた直治も母の後を追うように自殺。直治の死と前後して、和子は上原の子を妊娠したこと、それを知ってか知らずか、上原が自分から離れていこうとしていることに気付く。和子は「(不倫の子を生んだ)シングルマザー」として、動乱やまぬ戦後社会に腹の中の(やがて生まれてくるであろう)子と強く生きていく決意を上原宛の書簡にしたためる。
それから、積極的な思想を表現する作品である。
= 1 \* GB3 ①『走れメロス』について
シラーの詩『担保』をもとに作者が肉づけしたものである。ディオニス王様の暴虐に怒った牧人メロスは逆に捕らえられ、処刑されることになった。メロスは妹のために三日の猶予を請い、親友セリヌンティワスを身代わりに預け、十里の道を走る。無事に妹を結婚させたメロスは「王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。」と折からの雨中を走り出す。濁流に橋を失った川を泳ぎ渡り、立ちふさがる山賊どもを打ち倒すが、ついに力がつき、もう仕方がないのだという「不貞腐れた」気持ちになった。しかし、泉の水に力を得たメロスは身につけるものもとばし、全裸になって走り続け、太陽の最後の残光も消えようというとき、ついに磔台上の友の台につかまることができた。互いに一度ずつ心に抱いた悪夢を告白し、声高く殴り合った二人は涙とともに抱き合う。王は「信実とは、決して空虚な妄想ではなかった」ことを知り、自分も仲間に加えてくれるように頼むのだった。
= 2 \* GB3 ②『女生徒』について
『女生徒』は、太宰治による1939年の短篇小説。『文学界』1939年4月号に掲載された。
1938年9月に女性読者有明淑(当時19歳)から太宰のもとに送付された日記を題材に、14歳の女生徒が朝起床してから夜就寝するまでの一日を主人公の独白体で綴っている。思春期の少女が持つ自意識の揺らぎと、その時期に陥りやすい、厭世的な心理を繊細な筆致で描き出し、当時の文芸時評で川端康成たちから激賞され、太宰の代表作の一つとなった。
1940年には、この作品に対して第4回北村透谷記念文学賞の副賞が授与された。
= 3 \* GB3 ③『富嶽百景』について
太宰治の中期の作風を決定づげたのがこの作品である。昭和13年の秋から年末にかけ、甲州の御飯峠が天下茶屋での自分の生活を材料として作り上げたもので明るく健康的でユーモアにあふれ、登場人物たちの相互の暖かい愛情にも富んでいる。新たな結婚も決まり、実生活のうえでも健康的になり始めた時期の作品である。
太宰治はその一生を通して多くの作品を書いた。その数は多いので、ここで、その主な作品だけを紹介することにした。
第2章 作品についての分析
以上は太宰治の主な作品を大体紹介した。これから、その中の代表作である『人間失格』と『走れメロス』について、それぞれ具体的に分析する。
2.1『人間失格』について
『人間失格』の内容は前にもすでに紹介した。それは遺作として太宰治の自伝と認められている。『人間失格』は、「はしがき」と三つの「手記」と「あとがき」で構成されており、その成り立ちの由来は「あとがき」で明らかにされている。
「第一の手記」が、葉蔵という人物を総論的にとりあげたものとするなら、「第二の手記」、「第三の手記」は、葉蔵が実際に世の中に出たときの、実践編とでもいえるものである。そこには、学校や世間とぶつかりながら、「恥の多い生涯」を送っていく葉蔵の姿が描かれている。
「第二の手記」は、葉蔵が東北の中学校に入学したところから始まっているが、やがてそこで、葉蔵の道化が「或るひとりの全知全能の者に見破られる」という事件が起きる。「定義」が現実のものとなってきたのである。「すべて、計画的な失敗」だった。皆の大笑いになるが、竹一という「白痴に似た生徒」だけはその道化を見破り、葉蔵の背中をつついて、「ワザ。ワザ。」と低い声で囁く。「誰かひとりが知つてゐる」のであった。
葉蔵が「尊敬される」ということに与えた「定義」が、今度は、道化が見破られているのではないかという恐怖として語られる。
主人公葉蔵の手記は、「人間の生活」が「見当つかない」として次のように書き出されている。
恥の多い生涯を送つて来ました。 自分には、人間の生活といふものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなつてからでした。………… 自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴア、掛蒲団のカヴアを、つくづく、つまらない装飾だと思ひ、それが案外に実用品だつた事を、二十歳ちかくになつてわかつて、人間のつましさに暗然とし、悲しい思ひをしました。(太宰治、1939,126)
手記の冒頭のこの箇所には、葉蔵の心的な傾向があざやかに示されている。葉蔵は、実利的な階段に過ぎない停車場のブリッジを「ずゐぶん垢抜けのした遊戯」と思い込み、地下鉄道という実利的なものを「面白い遊び」と思い込んでいた。
大人になるということは、遊びの場面を時間的・空間的に限定していくことである。だが葉蔵にはそれができない。葉蔵は手記の冒頭で、情緒的な関係を過度に求める人物として性格づけられている。人は共同的な規範性を媒介としない限り、他者と関係を結ぶことができない。他者との共通性が、他者を理解する基盤になっている。しかし、世間の規範を情緒的にしか感取できない葉蔵にとって、他者の内面は、うかがい知ることのできないものとしか感じられていない。
葉蔵は、自己の内面から類推して他者の内面にたどり着くという方法で、他者を理解することに自信が持てない。それで、他者の内面が「わからない」とくり返し述べることしかできない。その結果、「自分ひとり全く変つてゐる」と他者との違いだけが過剰に意識され、他者に「何を、どう言つたらいいのか、わからない」という状態に追い込まれていく。
薬物におぼれて、買春、自殺、それから、完全に他人を理解しなかった。最後の大庭葉蔵は人間としての資格を喪失する人になった。
大庭葉蔵を通じて、いろいろな消極的な思想を表した。
2.2『走れメロス』について
『走れメロス』の内容は前節に