1、 神代(先史時代)とは?
歴史の始まる前の神話で伝えられている時代。戦前の小学校や中学校の教科書で原始社会の歴史が全然書かれていなかったです、直接には「神代」の説話で日本歴史を書きます。
2、 岩宿文化とは?
大陸からやってきた人間は狩猟生活を営む人々であった、食するには獲物を打ち倒し加工する武器が必要となる。武器として先頭器と握り槌があります。この当時の武器といえば、石材を打ち砕いて作った「打製石器」である。石と石を打ち付けて砕くと、その断面は鋭利な刃物のような形状になり、その石を棒に固定すれば槍や斧や包丁のような使い方ができる。こういった武器を使い日々の狩猟で生活した時代を「旧石器時代」と呼ぶ。旧石器時代の文化も岩宿文化と言います。
3、 縄文式文化とは?
日本列島において、旧石器時代の文化に続く、食料採集に基づいた文化。木の実や貝を集め、狩りや魚とりなどに生活の基礎をおき、若干の栽培も行ったらしい。打製?磨製石器や土器を用い、堅穴住居を住まいとした。主に東?北日本の落葉広葉樹林帯で栄えた。
4、 縄文土器
およそ約1万6000年前から、やく2300年前の縄文時代に北海道から沖縄島で作られた土器である。表面に縄文のあるものが多い。焼成温度が低いため黒褐色や赤褐色を呈するが、時期?地域による型式の差は大きい。
5、 上古時代(石器時代)人の精神生活(呪術)の内容を簡単に述べよ。
文明の未発達な石器時代は暴風?水害などで集落が一拳に壊減したり、また長雨や日照りで飢餓にさられることもあった、ですから、自然現象などに霊威を認めて恐れた。土偶?石棒などは生産の実利を祈る。呪術に用いられたものと言います。主に女性をかたどっている土偶は生命を生み出すことの敬意を表したものらしい。
6、 縄文人と弥生人の住宅の特徴を比較して纏めよ。
縄文人住宅について、人々は竪穴式住居を建てて家とし、集団生活の村を作った。こうした村は日当たりのよい平坦な台地に作られることが多かった。当然、狩りや漁に都合がよいように山や海に近い台地が選ばれている;弥生時代の都市国家は巨大な環濠集落であったが、中国の都市国家のような城壁に囲まれたものではなく、柵や濠で一応の境界線を築いた大きな村という感じである。
7、 弥生文化とは?
日本で食料生産に基づく生活が始まった最初の文化。縄文文化の伝統のうえに大陸文化が到来して成立。稲作?米食、青銅器?鉄器の製作?使用、紡織などが始まり、専門技術者が生まれ、支配?被支配の関係が生じ、地域社会が政治的にまとまりはじめた。
8、 日本人の源について纏めよ。
日本人の源について大体三種類説があります。
A:土著人類の説、縄文人は生活環境の変化によって弥生人になります、弥生人は古墳人になります。それから現代の日本人になります。
B:渡来人の説、現代の日本人は全部朝鮮半島、山東半島から渡来しております。
C:混血人類の説、古代の縄文人は渡来人と混血を進行して現代の日本人になります。
以上の三種類の説の中で、混血人類の説は学術界で認められます。
9、 銅鐸とは?
銅鐸は中国の扁鐘を祖形としたとされる楽器であって、近畿地方を中心に中部地方西半.中国四国の東半にかけて出土する青銅製祭器である。
10、 卑弥呼について述べよ。
3世紀ごろの邪馬台国の女王。「魏志倭人伝」によれば、30余国を統治し、239年に魏の明帝に朝貢し、親魏倭王の称号と金印とを受けたとされる。ひめこ。
11、 三種の神器とは?
歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継いだという三つの宝物。八咫鏡(やたのかがみ)?天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(草薙剣(くさなぎのつるぎ))?八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。
12、 大和政権の日本統一について述べよ。
政権の分裂?国内の動乱?朝鮮問題の緊迫??などの危機をう前にして、大和王国の内部には政局再建の気運が生まれ始め、540年、欽明朝は宣化朝を合一した。広大な支配領域を持った大和王国は、統一的な新しい支配組織を整え、仏教?儒教を中心とする新たな支配理念や文化を持つようになった。
13、 大和政権の朝鮮半島進出について述べよ。
5世紀に入ると、大和王権の王は中国へ朝貢を始めた。朝貢を行った理由?背景は明確とはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部の伽耶諸国に於ける利権争いへ参入を有利に進めるためであろうと考えられている。中国や朝鮮半島諸国との通交?人の交流などにより、技術や文化を持った多くの人々が渡来し、大和へ貢献した。
14、 上古時代の民族宗教の様子を簡単に纏めよ。
原始的宗教は自然崇拝を基本とするのが通説であり、主に女性をかたっどている土偶は生命を生み出すことの敬意を表したものらしい。また、この時代のものとして発掘される人骨は抜歯の痕が見られる。これも宗教的な習俗の現れと見られている。
15、 上古時代の民族風俗の様子を簡単に纏めよ。
縄文時代を紹介すうのに、腰にシノを巻いたような格好や、毛皮を身につけた格好を示している本がある。縄文時代の衣服が発見されていないために、南方の開発途上国にいる土着民族の格好と同じと考えたり、欧州の石器時代人の格好と同じと考えられます。確かに、捕らえたシカの皮を捨てることはなく、利用したと考えます。土偶?土版?土面?石棒?研歯?抜歯?入れ墨などによる成年式や集団規制がある。屈葬による死者のよみがえりへのお願い。
16、 記紀神話について述べよ。
17、 上古時代の婚姻形態を述べよ。
18、 上古時代の人々の日常生活の行い方を纏めよ。
旧石器時代人は狩猟生活を営む。現在では絶滅したナウマン象や大角鹿を捕らえ、食するには獲物を打ち倒し加工する武器が必要です、そのために打製石器を使用始めた。縄文時代は土器と磨製石器を用いていることから新石器時代にあたる。狩猟?漁労の採集経済が生活の中心であったが、原始的な農耕は行われていた。
19、 古墳時代の造形美術について述べよ。
3世紀末~4世紀:近畿から瀬戸内海沿岸の一部に突如として独特の形をした巨大な前方後円墳が築かれるようになった。ほかには、円墳や前方後方墳などもあった。
20、 古墳文化とは?
古墳が築かれた3~7世紀の文化,すなわち古墳時代文化をいう。古墳文化の中心になったのは近畿であった。3世紀まつから四世紀に前方後円墳が築かれるようになった。ほかには円墳と前後方方墳などもあった。同時に古墳文化は農耕?鉄器文化としての弥生文化を継承?発展させたものである
21、 律令社会とは?
律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治制度およびそれに基づく政治体制。中国の隋?唐の法体系を取り入れて成立。
22、 律令社会はいかが形成されたのか?
5世紀末から大和国家の支配は危機に陥った。蘇我氏をはじめ有力豪族や聖徳太子らは、隋.唐の新たな主冶体制を日本に移して変革を試し見た(例えば、大化革新など)。白村江の敗戦という内外の重大事を契機に、8世紀初頭に日本の律令「大宝律令」が完成しました。「大宝律令」によって、律令社会が確立していました。
23、 律令社会時代に日本はいかに大陸精神文化を輸入してきたのか?
皇極天皇の時代、蘇我蝦夷、蘇我入鹿父子が朝廷での実権を握った。蝦夷は遣唐使を何度も派遣し、海外の文化を積極的に導入しようとした。大陸から遣唐使として唐で学び帰国した者たちの中には私塾を開く者も居て、そこに豪族たちの子弟が通って大陸の文化や知識を学んだ。入鹿はそこで学ぶ1人で、同塾生として中臣鎌足がいた。
24、 飛鳥白鳳天平文化とは?
飛鳥時代、推古朝を中心に栄えた日本最初の仏教文化。法隆寺などの遺構?遺品などから、朝鮮を経由して伝えられた中国六朝(りくちょう)文化の影響が強くみられ、西域文化の影響もみられる。
飛鳥文化に続く7世紀後半から、8世紀初頭、すなわち、天武.持統天皇の時代を中心とした文化を白鳥文化という。この時代は古代国家が確立する時期にあたり、中央貴族のあいだでは緊張した清新な空気が流れる。対外には遣唐使による初唐文化の影響をうけて、いまだ未完成であるとはいえ、創造力.生命力の充実した文化であった。やがて、これが円熟し、天平文化が形成されるのである。
25、 飛鳥白鳳天平の仏教芸術の様子を纏めよ。
この時期には、道教の受容も進んだが、仏教は貴族、豪族層により広まり、各地に寺院が建立された。それが、仏像など造形文化に一つの特色をもたらした。そして貴族、豪族層により造られた寺院は元興寺、弘福寺、薬師寺、大官大寺、山田寺などがあった。飛鳥白鳳天平の前半に彫刻はまた飛鳥時代の様式が継続され、後半には、唐の影響があらわれ、薬師寺の聖観音像(東院堂)、薬師三尊像、夢違観音像などがあった。絵画.工芸に関しては法隆寺金堂壁画があったが、1949年に焼失してしまったが、この技法はインド.グプタ時代のアジャンタの壁画に源流をもち、大陸から渡来したものといわれ、大陸文化流入の一例である。
26、 平城(へいじょう)京(きょう)とは?
平成京はかつての日本の首都。いわゆる『奈良の都』である。唐の都『長安』をモデルに作られた。南北に長い長方形で、中央を南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)によって左京?右京に2分し、さらに南北?東西を大路?小路によって碁盤の目のように整然と区画した。
27、 妻問婚(つまといこん)とは?
妻問婚(つまどいこん)とは婚姻の一種で、夫婦が結婚後も同居せず夫が妻の下に通う婚姻の形態のこと。婿入り婚ともいう。
28、 『懐風藻』を簡単に説明せよ。
奈良時代の漢詩集。1巻。淡海三船(おうみのみふね)の撰ともいうが、撰者未詳。天平勝宝3年(751)成立。近江(おうみ)朝以後、約80年間、64人の漢詩120編を年代順に集めた、日本最古の漢詩集。
29、 『万葉集』を簡単に説明せよ。
奈良時代の歌集。20巻。大伴家持が現存の形に近いものにまとめたとされる。成立年未詳。短歌?長歌?旋頭歌(せどうか)?仏足石歌?連歌の五体で、歌数4500余首。仁徳天皇の皇后磐姫(いわのひめ)の作といわれる歌から、天平宝字3年(759)大伴家持の歌まで約400年にわたる全国各地、各階層の人の歌が収められる。東歌(あずまうた)?防人(さきもり)歌などを含み、豊かな人間性を素朴?率直に表現した歌が多い。現存する最古の歌集で、万葉仮名を多く用いている。
30、 平安時代とは?
平安京に都が置かれた時代。延暦13年(794)の桓武天皇の平安遷都から文治元年(1185)鎌倉幕府の成立までの約400年間。平安朝時代。
31、 平安初期の文化を紹介せよ。P141~145
かな文字は下級官人?僧侶(そうりょ)等の間から生まれ来たものであったが、宮廷(きゅうてい)でも次第に女子が用(もち)いるようになった、漢学的教養のある男性ははじめ軽蔑(けいべつ)して用いなかったが、10世紀の初め頃には字形もほぼ一定し、10世紀中葉以後は次第に上流貴族も広く用いるようになった。かな文字の普及によって、人々とは思想感情や言葉をそのまま自由に表現できるようになり、従来の漢詩、漢文学に代わり、和歌、物語(ものがたり)、日記、随筆(ずいひつ)等が発達した、随筆家として「土佐日記」の著者(ちょしゃ)として有名である。伊勢(いせ)物語は平安時代初期に成立した歌物語。蜻蛉(とんぼ)日記は平安時代の女流日記。
32、 国風文化とは?
平安中期から後期にかけて栄えた、温雅な日本ふうの貴族文化。仮名文学?寝殿造り?大和絵?仏像彫刻など諸分野でその特色がみられる。
33、 平安社会(貴族社会)の特色を纏めよ。
平安時代の特色は貴族政治?荘園社会?武士団の形成にある。時期区分は9世紀後半からの藤原氏の権力集中過程、10世紀後半からの藤原摂関家の権力集中、11世紀中葉からの院政期となる。構造上の共通性は君臨したのが藤原貴族であれ上皇であれ、いずれも天皇の権威を前提にした存在であり、律令の原理に基づき、律令政治を前史としてのみ誕生した政治形態である。社会的基盤は受領による国衙領支配と、荘官?領主による荘園支配にあり、課税単位は律令的な人身賦課から名田を中心した土地へと変遷した。国衙領も荘園も構造的には同じで荘園制社会と呼ぶ。土地からの収奪?寄進物による貴族の消費生活は華麗な王朝文化を生み出した。
34、 物語文芸の発達及びその理由を纏めよ。P143、187
平安時代から物語は多様な発達を見せ始めた。竹取物語は日本最古老とされる物語である、伊勢物語は平安時代初期に成立した歌物語、理想形を書いたものとして後代の和歌および物語文学に大きな影響を与えた。11世紀の初めになると紫式部(むらさきしきぶ)によって、物語文学の最高傑作とされる「源氏(げんじ)物語」が書かれた。「平家(へいけ)物語」は鎌倉(かまくら)時代に成立した平家の栄華と源平の戦いによる沿落(えんおち)を描いた軍記物語である、後世の様々な文学作品に影響を与えた、語り本は当道座に属する盲目の琵琶(びわ)法師によって琵琶を弾(ひ)きながら語られた、それぞれの弟子(でし)が師の芸を伝承している、また、後世の音楽、芸能(げいのう)に取り入れられていることも多く、ことに能には平家物語に取材した演目が多い。
35、 日記文学とは?
日記(にっき)とは、日々の出来事を記した記録で、今日では文学の一ジャンルに数えられており、文学の最も初期のかたちのひとつである。あるいは、初期のかたちという以上に、人がものを書くという行為の原初的なもので、文学という概念以前のものといってよいかもしれない
36、 女房(にょうぼう)文学とは?
女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代ごろまでの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。平安中期以降の社会においては受領階級などの中級貴族の娘が出仕することが多く、そのため教養に優れていた。ひらがなの使用など国風文化に大きな影響を与えた。和歌や和文文学に優れた人物も多く、平安期から鎌倉期にかけてのこの階層の作者の手になるものを特に女房文学と呼ぶ。
37、 勅撰和歌集とは?
天皇?上皇などの命により作られた歌集。「古今和歌集」から「新続古今和歌集」まで二一集がある。総称して「二十一代集」という。
38、 『古今和歌集』について述べよ。
最初の勅撰和歌集。二〇巻。905年、醍醐天皇の下命により、紀友則?紀貫之?凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)?壬生忠岑(みぶのただみね)撰。913年頃成立。歌数約1000首。仮名序?真名序がつけられている。理知的?技巧的で、情趣的な「もののあわれ」を基調とする歌が多い。三代集?八代集の一。
39、 『源氏物語』を紹介せよ?
源氏物語は、平安時代中期に成立した長編物語、小説。紫式部作。写本の題名に源氏物語との記載はなく、写本により題名は異なる。後世の文献では「源氏の物語」「紫の物語」「光源氏」「源氏」「源語」「紫文(しぶん)」などとも呼ばれた。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下した源氏光源氏が数多の恋を経験しながら人臣最高の栄誉を極め(第一部)、晩年にさしかかって愛情生活の破綻による無常を覚えるさままでを描く(第二部)。さらに老年の光源氏をとりまく子女の恋愛模様や(同じく第二部)、或いは源氏死後の孫たちの愛(第三部)がつづられ、長編恋愛小説として間然とするところのない首尾を整えている。
40、 絵巻物(えまきもの)とは?
絵巻物(えまきもの)は、日本の絵画形式の1つで、横長の紙(または絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語などを連続して表現したもの。「絵巻」とも言う。絵画とそれを説明する詞書が交互に現われるものが多いが、絵画のみのものもある。
41、 絵巻物の発達振りを紹介せよ。
最初の絵巻物は、奈良時代に制作された『絵因果経』であると言われる。これは巻物の下段に経文、上段にそれを絵解きする絵画を配したものである。
平安時代になると、王朝文学の物語、説話などを題材とした絵巻が制作されるようになった。これらは、金銀箔や野毛、砂子を撒き、花鳥などの下絵をあしらった料紙に連綿体で書かれた詞書と、それに対する絵を交互に配する独特の様式を生み出した。
物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『宇治拾遺物語』などを、独特の表現で描写し、特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩で貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹抜屋台で描かれていて、当時の住居の状況や建具の使用状況などが一望できる。
鎌倉時代には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社縁起や高僧の伝記絵巻などが多く制作された。
『源氏物語絵巻』?『信貴山縁起』?『伴大納言絵巻』?『鳥獣人物戯画』を、日本の四大絵巻物と称される
42、 受領(ずりょう)とは?
受領(ずりょう)とは、地方官の呼称に関する日本史用語、物やサービスを受けることと国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。
43、 名主(なぬし)とは?
江戸時代の村方三役の一。村の長で村政の中心であった。土豪その他の有力者が代官に任命され世襲が普通であったが、享保(1716-1736)頃より一代限りとなったり、入れ札(ふだ)で選ぶこともあった。関西では主に庄屋、東北では肝煎(きもいり)といった。また、町にも町名主がおり町政を担当した。
名主(みょうしゅ)は、日本の古代末期から中世日本にかけて、公領?荘園領主から名田の経営を請け負うとともに、領主への貢納(年貢?公事?夫役)の責務を担った階層である。
44、 鏡物(かがみもの)とは?
書名に「鏡」のつく、和文の歴史物語の総称。「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」など。鏡類。
45、 院政(いんせい)とは?
1.院の庁で、上皇または法皇が国政を行っていた政治形態。応徳3年(1086)白河上皇に始まり、天保11年(1840)光格上皇崩御まで断続して行われた。
2 現職を引退した人が、なお実権を握っていること。「会長が―をしく」
46、 摂関(せっかん)政治とは?
摂政?関白が主導権をもつ政治。特に平安中期、藤原氏が天皇の外戚となって摂政?関白を独占し、政治の実権を握った政治形態。11世紀後半に院政が始まって以降は形式化した。
47、 猿楽(さるがく)とは?
猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代から室町時代にかけて流行した日本の芸能。散樂(さんがく。散楽)、申樂(申楽)とも書く。読み方は「さるがう」とも。演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を猿楽師、または単に猿楽とよんだ。猿楽という言葉は散楽の転訛したものであるが、言語学的には[n→ru]の音変化は一般的なものではない。散楽が物真似を中心とした滑稽芸であったため、音韻上の類似も相まって、猿との間に連想が働き、遂には音変化して猿の文字をあてるに至ったものと推測される。申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。猿楽は本来神楽だから、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。猿楽が能楽に発展し江戸時代に武家の式楽となった後も、徳川幕府の公式歴史書、『徳川実紀』では猿楽と表記された。明治に完全に改称され、以降能、狂言とされた
48、 今昔(こんじゃく)物語(ものがたり)とは?
今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)は、平安時代末期に成立したと見られる説話集。全31巻。ただし8巻?18巻?21巻は欠けている。編纂当時には存在したものが後に失われたのではなく、未編纂に終わり、当初から存在しなかったと考えられている。又、欠話?欠文も多く見られる。
49、 貴族文化の庶民化の様子を紹介せよ。
50、 貴族文化と海外との繋がりを紹介せよ。
貴族文化は聖武天皇の天平年間を中心にした奈良時代の文化をいう。奈良時代には奈良朝文化が最高潮に達した時期である。対外的には、2回にわたって遣唐使を派遣し、727年(神亀4)渤海との通交も初めて開け、新羅との交通は頻繁で、文物の輸入は盛んであった。
51、 平安時代(貴族時代、王朝時代)の都会と農村の生活文化の有様を纏めよ。
52、 武士の勃興とその発生の原因及び歴史的意義を簡潔に述べよ。
53、 鎌倉(かまくら)時代とは?
鎌倉時代は(かまくらいじだい、1185年頃―1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並ぶ政治の中心となった鎌倉幕府が相模鎌倉に所在したことから鎌倉時代と称する。
54、 武家(ぶけ)政治とは?
武家が政権の中心となった政治。鎌倉?室町から安土桃山時代を経て、江戸時代に至る約700年間に及ぶ政治をいう。
55、 武者(むしゃ)と文芸と関わりを紹介せよ。
武士や民衆を目指した仏教が鎌倉へ積極的に布教したため、鎌倉には禅宗.浄土宗.立宗.日蓮宗などの仏教の宗派が興隆し、全国に広まってその後の日本人の宗教のあり方を決定づけた。特に上流武家が禅宗を積極的に導入したため、教義だけでなく南宋.元様式の建築.彫刻.絵画.文学のほか日常の生活様式も武家に選択的に受け入れられたことから、大陸の文化様式は鎌倉から京都をはじめとして全国各地に広がって日本文化の新たな発展を導いた。武士の間には神仏への崇敬や論理としての質実剛健と名誉を尊ぶ気風などが重んぜられ、これはやがて「騎士道に対比される「武士道」へと発展していった。武士が訓練を積んだ流鏑馬(やぶさめ)や相撲などの武芸も武士の精神的支柱とされた鶴岡八幡宮などの神事で演じられ、それに伴う伝統芸能も今に継承されている。こうして武家の都鎌倉に育った武家による社会の仕組みや文化は武家政権の消滅後も日本人の精神や文化のよりどころとして現在までに引継がれている。
56、 軍記物語とは?
戦乱を主な題材として、ある時代の歴史を取り扱った物語類。主に、平安末から鎌倉?室町時代にかけて書かれた。「保元物語」「平治物語」「平家物語」「太平記」など。和文に漢語?仏教語?武士言葉などが融合した和漢混交文が特徴。また、変体漢文で書かれたものもある。
57、 琵琶法師とは?
琵琶を弾くことを職業とした盲目僧体の芸人。平安中期におこった。鎌倉時代、主として経文を唱える盲僧琵琶と、もっぱら平家物語を語る平家琵琶とに分かれた。
58、 無常観(むじょうかん)とは?
一切は無常であるとする、ものの見方。この現象世界のすべてのものは消滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。
59、 源平(げんぺい)合戦(かっせん)とは?
治承?寿永の乱(じしょう?じゅえいのらん)を源平合戦という場合は多いです。治承?寿永の乱は平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
60、 『平家(へいけ)物語(ものがたり)』を簡単に紹介せよ。
『平家物語』は、鎌倉時代に成立した平家の栄華と源平の戦いによる没落を描いた軍記物語である。
信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が作ったと徒然草にはあるが、作者?成立年ともに未詳。治承~寿永期(1177~84)の動乱を、平家一門の興亡を中心にとらえ、仏教的無常観を基調に流麗な和漢混交文で描いた叙事詩風の作品。平安貴族たちの生き様と新たに台頭した武士たちの生き様を見事に対照的に描いている。平曲として琵琶法師によって語られ、後世の文学に大きな影響を与えた
61、 軍記物語の特徴を簡単に紹介せよ。
戦乱を主な題材として、和文に漢語?仏教語?武士言葉などが融合した和漢混交文が特徴。
62、 平安末期から鎌倉時代にかけての新仏教の様子を紹介せよ。
平安末期から鎌倉時代にかけての間に多くの宗派が生まれている。当時は政治の実権が貴族から武士へと移る転換期であり、其一方、天災.飢餓.戦乱などによって民衆の苦悩は深まって行った。しかも仏教教史観によれば、末法の時代でもあった。そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代わり、民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれたのであった。新仏教は禅宗、浄土宗、日蓮宗、浄土真宗、融通念仏宗.時宗があります。其特色は平意な教義、修行が容易で、形式的な戒律を排除し、武士.農工商庶民を対象に布教、強烈に自派を主張する。
63、 平安末期から鎌倉時代にかけて日本文化人の理論的な貢献を纏めよ。
64、 『新古今和歌集』とは?
鎌倉初期の勅撰和歌集。八代集の第八。20巻。後鳥羽院の院宣により、源通具(みなもとのみちとも)?藤原有家?藤原定家?藤原家隆?藤原雅経が撰し、元久2年(1205)成立。仮名序?真名序があり、歌数約2000首。代表歌人は西行?慈円?藤原良経?藤原俊成?藤原定家?式子内親王?寂蓮など。歌風は新古今調といわれ、万葉調?古今調と並び称される。
65、 藤原(ふじわら)俊(とし)成(なり)とは?
[1114~1204]平安後期の歌人。名は「としなり」とも。定家の父。法名、釈阿。幽玄体の歌を確立し、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをした。後白河院の院宣により、「千載集」を撰進。家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風体抄」など。
66、 幽玄(ゆうげん)とは?
中世の文学理念の一.深い余情のあること.
幽玄は藤原(ふじわら)俊(とし)成(なり)においては、歌の素材に於いてのそれではなく、すがた、風体等のそれであったと言われる
67、 『方丈記(ほうじょうき)』について述べよ。
随筆。一巻。1212年成立。鴨長明著。冒頭で人と栖(すみか)の無常をうたい上げ、五つの天災の体験を述べて裏付けたあと、世俗を捨てた閑居生活の楽しさを語り、さらに仏徒としての自己を顧みて結ぶ。流麗な和漢混交文によって、無常観が絶望的に述べられています、大地震で世のなかが地獄絵図のようになってる描写がかかれています。
68、 『徒然草(つれづれぐさ)』について述べよ。
『方丈記』に続いての随筆である。筆者は吉田兼好です。書かれたのは、長明さ んのころからもう百年以上たってるので、だいぶ落ち着いていて、無常観もあるが、ゆっくりと、平安時代の古典への憬れや、日常の処世訓や、興味のことや、とっても鋭い(するどい)冷静な眼差して書いている。『枕草子』『方丈記』と合わせて、三大随筆といいます。
69、 隠(いん)者(じゃ)文(ぶん)学(がく)(草(そう)庵(あん)文学、隠(いん)遁(とん)文学)
隠者たちによって書かれた文学。西行?長明?兼好らの作品を代表とし、中世文学の主要部分をなす。無常観?脱俗性などを特色とする。また、室町時代の連歌師や、近世の芭蕉らを含める場合もある。
70、 俳諧(はいかい)とは?
日本独自の短詩形文芸形式の一。「座(共同体)」の意識のもとに成立し、「滑稽」を本質とする文芸。発句(ほつく)?連句?前句付?俳文などより成る。室町末期の山崎宗鑑?荒木田守武らによる滑稽?卑俗な作風を受け、江戸時代に松永貞徳が出て独自なジャンルとして確立。談林俳諧を経て松尾芭蕉の蕉風に至って文学的に高められた。
71、 貴族文化の伝統について述べよ。
72、 守護(しゅご)とは?
鎌倉幕府の職名。鎌倉幕府の守護は一国に一人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ケ条や国内の御家人の統率庁役割の役職。
73、 地頭(じとう)とは?
74、 鎌倉幕府の職名。地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の微収や土地管理などが役割であった。
75、 室町(むろまち)時代とは?
足利氏が京都室町に幕府を開き、政権を掌握していた時代。足利尊氏が建武式目を制定した1336年から、一五代義昭が織田信長に追放される1573年までをいう。その前期を南北朝時代(1336-1392)とよび、また1467年の応仁の乱以降を戦国時代とよぶことも多い。
76、 荘園体制がいかに解体されたのか?
鎌倉幕府中期以降、地頭の荘園侵略を進んでいたが、室町時代になると守護が荘園侵略を行うようになった。豊作凶作にかかわり一定額の年貢で荘園管理を一切請け負わせる地頭請や、荘園を地頭分と領家分に強引にかける下地中分など一部で横暴も多くなった。当時に惣にまとまった農民は荘園領主と交渉して年貢を下げさせたり、無理な取立てをする荘官をやめさせたりするほか、惣の責任で年貢を納めることもあった。さらにいくるかの惣が共同して用水路を管理することもあった。こうして惣の自冶が広まるとともに、荘園領主の役割は失っていた。こういうふうに荘園体制が解体になりました。
77、 下克上(げこくじょう)とは?
〔「下、上に剋(か)つ」の意〕下の者が上の者をしのぎ倒すこと。特に、室町中期から戦国時代にかけてあらわれた、伝統的権威?価値体系を否定し、力によって権力を奪い取るという社会風潮。国一揆や戦国大名の多くはこうした風潮の中から生まれた。
78、 連歌(れんが)とは?
古典詩歌の一体。短歌の上下句を分けて二人で問答唱和することに始まり、万葉集に大伴家持と尼との唱和の例がある。平安時代に入って歌人の余技として即興的?遊戯的に行われ、長短二句の短連歌が多かったが、やがて第三句以後を連ねる鎖連歌(長連歌)の形式を生み、鎌